Editor’s Note:科学技術とインクルージョン
誰も取り残さない科学テクノロジーのあり方とは
※本稿は、SSIR Japan 編『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 03 科学技術とインクルージョン』より転載したものです。
中嶋愛 Ai Nakajima
今年の8 月、スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビューの初のグローバルカンファレンスがスタンフォード大学で開催されました。卒業してから四半世紀ぶりに歩くキャンパス内には美術館やコンサートホールを含む新しい建造物が立ち、現代美術家の巨大な作品が屋外に設置され、寮も増新築されて、自分の記憶の中の地図がすっかり役に立たなくなっていました。とりわけ立派な校舎が目立つのがコンピュータサイエンスをはじめとするエンジニア系の学部です。
毎年、テクノロジーで世界を変える! そして大金持ちになる! と意気込んで多くの学生がスタンフォード大学に集まってきます。その一部は本当に世界を変え、大金持ちになっています。そうした成功が新たに若者たちを引き付けます。しかしこのテクノロジー万能主義と英雄崇拝が、意図せず世界をより不公正で不自由な方向に変えている可能性もあります。
スタンフォード大学で政治学を教えているジェレミー・ワインスタイン教授は、エンジニア系の学生の多くが、テクノロジーによって誰のどのような課題が解決されるのか、その課題はそもそも解決されるべきなのか、誰がそのテクノロジーから最も恩恵を受け、誰が代償を支払っているのかといったことに無頓着であることに衝撃を受けたといいます。効率や最適化こそ善であるという発想は、たとえば男女差別につながる人材採用AIのような、現システム内での不公正を固定化するテクノロジーを生み出すことにもつながりかねません。危機感を抱いたワインスタイン教授は、哲学者とAI 研究者の同僚とともに、コンピュータサイエンス学部でテクノロジーと倫理をテーマにした新しい授業を始めました。それが反響を呼んで、地域コミュニティや企業からも講演の依頼があるといいます(「『最適化至上主義』から民主主義的価値を守れるか」)。
こうした問題に直面しているのはコンピュータサイエンスだけではありません。たとえば生命科学の領域でも、ゲノム編集の革新的テクノロジーであるCRISPR は「パンドラの箱」に例えられるほど、さまざまな倫理的、政治的、社会的問題を孕んでいます。科学技術の進化はとどまるところを知りませんが、私たちは暴走する列車に呆然と乗っているわけにはいきません。列車を制御しながら、より公正で暮らしやすい社会に向かっていくには、何から取り組んでいけばよいのでしょうか。
スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 VOL.3 では、科学技術と社会の問題をとりあげます。科学技術の暴走や悪用を防ぎつつ、その恩恵を広く社会全体にいきわたらせるためには何が必要なのか。日本版オリジナルの特集「科学テクノロジーと社会をめぐる『問い』」では、多様なセクターの研究者と実践者から、これからの科学技術と社会との関係を考えるうえで答えを模索していくべき重要な「問い」を集めました。そのなかから浮かび上がってきたのは、「科学とテクノロジーは誰のものか」という大きな問いです。
たとえば、科学技術の進化の鍵を握っているのがデジタルデータですが、私たちはその利用者であるだけでなく、提供者でもあります。私たちが無償で自分の情報を提供するのは、よりよいサービスを受けるためであったり、公衆衛生や災害予防などの公益のためであったりしますが、いずれの場合も、その提供の仕方や提供したデータの扱われ方についてほとんど選択肢がありません。現在主流となっているのは企業が提供されたデータに関する決定権を持つやり方です。それに代わるものとして、草の根の市民行動によってデータをコントロールするモデルを提案しているのが「個人のデータ提供をめぐる2つの未来」です。
データ提供者の権利が極限まで侵害された状況が「データ植民地主義」です。「データ利用の植民地主義を脱却せよ」では、植民地における天然資源の搾取や先住民への不当な権力行使に似たようなかたちでデータが収集、所有、利用されることを防ぐための4 原則を提案しています。
科学技術をより身近な社会問題の解決に役立てるにはどうしたらよいのか。その1 つの答えが地域コミュニティをエンパワーするサイエンスの民主化です。市民が協力者として、あるいは市民のイニシアチブで科学を実践する「市民科学」は、テクノロジーとネットワークによってエンパワーされることで、社会を目に見えるかたちで変えていく可能性を持っています。「NASAも注目する市民のための気候変動データ収集アプリ」で紹介されているISeeChangeは一般市民が自分の暮らす地域で起きている気候変動の影響に関するデータを投稿できる無料デジタルプラットフォームで、フロリダ州マイアミ市は洪水通報ツールとして、ルイジアナ州ニューオーリンズ市は気温上昇の記録に活用しています。地球生態系の破壊の最大の要因となってきた農業を持続可能なかたちに改革するための「協生農法」においても市民科学が大きな役割を果たしています。協生農法の中核となる知見は、野菜、果樹、薬草などの有用植物を混生・密生栽培することで自然生態系の多様性を人為的に高め、その自己組織化機能を強化することです。オープンソース化されたマニュアルに従ってそれぞれの菜園で協生農法に取り組んでいる実践者がその知見をオンラインのコミュニティなどで共有しています。「こうした集合知に貢献することを通じて、一般市民の生態系リテラシーが高まれば、情報通信技術によって適切な意思決定のプロセスにその声
を反映することが今や技術的に可能だ」と協生農法の開発者であり実践者の舩橋真俊氏は述べています(「人間による生態系の拡張で地球システムの自己再生機能を高める」)。
しかし一般的には、科学者は一般市民と関わることにあまり積極的ではありません。彼らのキャリアは科学者コミュニティ内での評価に依存しており、大学のような研究機関も科学テクノロジーをめぐる複雑な問題を市民と話し合うことをあえて奨励しないからです。「科学の『厄介な問題』とシビックサイエンスをどうつなぐか」ではこの問題に対して、財団などのフィランソロピー組織が科学コミュニケーションのトレーニングや多様な集団の交流に対して支援を行うことの意義を論じています。
市民科学において、新たに注目されている領域が「コミュニティ主導型科学」です。地域社会の問題について、住民が自ら科学者に支援を要請し、住民生活の目に見える改善を目指すもので、自然災害、公衆衛生、環境汚染などの分野を中心に導入されています。その動きは理系のあらゆる学術分野のなかで、最も人種多様性に乏しいといわれる地球科学にまで波及しています。アメリカ地球物理学連合(AGU)はコミュニティ主導型科学を実践するための方法論やルールを開発し、アメリカを含む世界各国の150 を超える地域で実践してきました。地域住民と科学者は知識レベルも目的意識も異なるがゆえに、連携といっても簡単なことではありません。AGUが開発した「TEX メソッド」は、地域住民と科学者が協働する際に起きそうな意見対立をあらかじめ予測し、決裂させないための方法まで用意しています(「環境正義を実現するコミュニティ主導型科学の可能性」)。
科学技術分野にはダイバーシティ&インクルージョンの面でも大きな課題があります。たとえば、スタンフォード大学の学部生の男女比は1:1 ですが、コンピュータサイエンス学部は男性が66%で女性が34%、人種的には白人とアジア系で約85%を占め、黒人とヒスパニックはそれぞれ10%以下です*。テクノロジー業界ではこの傾向はより顕著です。「疎外された地域を人材の宝庫に変えるテックインクルージョン」は、イスラエルのテクノロジー業界におけるアラブ系の雇用が極端に少ないという状況を打開するためのクロスセクターの取り組みについての記事です。イスラエルの話? と思うかもしれませんが、「アラブ系」を「女性」に置き換えてみると、そのまま日本のSTEM教育、テック業界の現状に重なります(「数字から見えてくる科学への期待とSTEMの課題」)。需要があり、賃金が高く、生活の安定にもつながる成長産業がマイノリティを含む多様な人々にも開かれることによって、社会が底上げされ、テクノロジーの可能性も広がります。
AIのコア技術にかかわる事業で、それを実現しているのが日本のバオバブという会社です。AIの学習データを作成するアノテーションと呼ばれる作業は、緻密さと忍耐力を必要としますが、バオバブは通常の企業組織に障害や制約があって適応できない人のなかに、この仕事で高いパフォーマンスを出す人がいることを発見しました。テクノロジーの発展に欠かせない仕事と、こうした埋もれた人材を結びつけることによって、質の高い学習データの作成というアウトプットだけでなく、より多くの人の人生の選択肢を広げるというインパクトを生み出しています(「誰もがその人らしく働ける就業環境の社会価値」)。
今回の特集を通して気づいたことは、科学テクノロジーと社会をめぐる「問い」には終わりがないことです。今号で広井良典教授が紹介しているイギリスの建築家、セドリック・プライスの言葉を改めてかみしめたいと思います。
Technology is the answer. But what was the question?
⸺ Cedric Price
テクノロジーこそ答えだ。ところで、問いは何だったかな?
終わりのない問い。その問いを見失わないために、私たちは対話を重ねていくのです。
中嶋 愛
スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 編集長
*https://stanforddaily.com/2020/08/08/how-has-diversity-within-stanfords-cs-departmentchanged-over-the-past-5-years/
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